ファンタジーがいくら空想の世界だからといって、「何でもあり」で描いてもいいということにはならない。主人公が実社会で生きているときには、科学の法則に支配されている。それがいったんファンタジーの世界に入り込んだとき、その世界での法則に支配されることになるのである。 その法則というのは、作者が決める。例えば、超能力を持つ人間が登場するとしよう。その人は未来を透視することができるのだが、いつでもできるわけではない。相手の体のどこかに触れたときだけ、相手の未来を透視することができる。これは実際にスティーブン・キングがある小説の中で設定した例である。作者がそういう法則を設定したら、常にその法則を守らなければならない。 <引用> そこで、ファンタジーを書こうとするとき、まず法則が必要、ということになる。私はこのことを、「ファンタジーにおける法則の設定」と呼んでいる。しかし、この特殊な法則を作中に設定する、という仕事は、それだけを分離して行なってみてもあまりうまくいかない。物語を創るという、全体の仕事の中で総合的に行なわれるのがもっとも自然で結果も過不足がない。もともと、この法則は作者が決めるものだから、どんなに奇矯なものでもいいが、一度決めた法則は、作中世界のすみずみまで、威令あまねく行きわたらせなければならないのである。そうしないと、どこかに作中の特殊論理と合わない出来事がまぎれこんでしまい、作中世界ではそれが嘘に見えてくる。こうした嘘は、ファンタジーを根底から覆してしまうもので、どれほビ小さな嘘であっても、全体の虚構をぶちこわしかねない。ファンタジーが本質的にミステリーの要素を持っているのは、このことにかかっている。 <出典:佐藤さとる著、『ファンタジーの世界』、92-93ページ。講談社現代新書> 人の言葉を話す犬がいるとしよう。その犬の言葉は子供にしか聞こえない。そう決めたらトコトン小説の最後まで貫かなければならない。途中で、何の理由もなく大人がその犬の言葉を理解できたとしたら話はぶちこわしになってしまう。そういうことを佐藤さとるはここで指摘しているのである。 さて最後に、ファンタジーが単に創られた世界を描く小説であるというのは誤解である。むしろ「人間の心の内側に入り込んで描写する」のがファンタジーであると、佐藤さとるは強調している。それは外から心の中をのぞき込むことでもない。もっと深いものなのである。 <引用> ファンタジーというのは、前章で述べたように、人間の心の内側にはいりこんで描写する形式の、文学分野にちがいない。文学が人間を描くことであるのなら、ファンタジーこそ、まさしく文学そのものではないか。文学の原点といってもいいかもしれない。複雑きわまりない人間を描くのだから、外側の視点からだけ眺めていては、とうてい描けない部分が、人間にはあるにちがいない。それを補うつもりで心理描写を心がけたとしても、せいぜい外からのぞきこむほどの効果しかないだろうから、心の中へすっぼりはいりこんだ形式とは雲泥の差があるはずだ−−。 <出典:佐藤さとる著、『ファンタジーの世界』、103ページ。講談社現代新書> さて5回にわたって佐藤さとるのファンタジー論を紹介してきました。興味を持たれた方はぜひ彼の小説を読んでみてください。 ★佐藤さとるの略歴は、Wikipediaでどうぞ。 ●前ページへ |