宮崎駿に学ぶ(三)

   子供たちにドキドキを伝えたい

 宮崎駿ほどの人ならば、子どもの心が手に取るようにわかるのではないかと思われる読者も多いのではないだろうか。実は私もその一人だった。
 彼は「ぼくはもう煩悩のかたまりのおとなですよ」と語る。実際は彼も大人であるから、すぐに子供の気持ちがわかるわけではない。自分の子どもや近所の子どもたちが大好きで、いつも注意深く彼らのことを見守ってきた中で、子供の感覚を理解しようと努力してきた結果として、わかるようになったのである。先入観を取り除いて彼らを見ていると、その行動や心の動きがよくわかるのである。そのことは彼の著書『出発点―1979~1996 』(徳間書店刊)に詳しく書かれている。
 宮崎駿は子どもの感性を持っているのではなく、彼らの心を理解する感性を持っているというほうが正確である。宮崎駿は謙虚に素直な心で子供と向き合い、よく観察しているのである。
 大人は子どもだったことがある。それを根拠に、大人の中には「子どもの心がわかる」と自負する人がいるかもしれない。そういう人こそ勝手に「子供はこう考え、こういう行動をしている」と思いこんでいるだけではないだろうか。そういう思い違いが、逆に彼らの心を傷つけているのではないだろうか。宮崎駿の姿勢から学ぶことはたくさんある。
 では、宮崎駿は
なぜ『となりのトトロ』を作ったのか。
 「はっきり言いたいのは、あの時代が懐かしいから作ったのではありません。やはり子供たちがあの作品を見たのをきっかけにして、ふと草むらを駆けたり、ドングリを拾ったりしてくれないかなとか、もう本当にわずかになっちゃったけど神社の裏側にもぐって遊んでくれないかなとか、自分の家の縁の下を覗いてドキドキしてくれないかなとか、そういうことなんですよね」(前掲書)
 彼は子供時代のこのドキドキを描きたくて、そして現代の子供たちに伝えたくて『となりのトトロ』をつくった。映画の最初のシーンで、田舎の家に引っ越してきたメイとサツキが、家中のふすまを開け、部屋や納戸を見て回り、ドキドキ、ハラハラするシーンがある。別の場面では、台風がやってきて一晩中激しい雨風が屋根を打ち、メイとサツキが恐くて眠れないシーンが。子供にとってはそういうどこにでもあることにドキドキ、ハラハラする。それが子供の感性を育てていくのである。
 現代の子供たちの多くが、テレビゲームやビデオで一日中部屋に閉じこもっていることについては、その悪影響に不安を感じている。五感が育たなければならない時期に、一方的に映像を受け取るだけの生活を繰り返すことは有害である。

 しかも刺激過剰な映像が多い。感覚が麻痺する。彼は自分が作った『トトロ』でさえ、子供が何度も繰り返し見るのは良くないと言っている。子供は自然の風物や生身の人間の中で育っていくべきなのである。子供たちにそういう機会を与えてやることが大人の責任なのだ。
 宮崎駿は子供向けの講演会で、常識にとらわれない物の見方について話している。ハチは体が小さくて、素早く飛び回ることができる。彼らの眼には、雨粒は丸くてゆっくり空から落ちてくるように見えるのではないだろうか。もしかしたら、ハチは濡れないようにその隙間をぬって飛ぶことができるのではないだろうか。
 鳥には風が見えるんじゃないだろうか。鳥はすぐに上昇気流を見つけて、空高く舞い上がることができる。だからきっと風が見えるのだと。そんなことを話す。
 私の娘が生後十ヶ月の時、といっても今年初めなのだが、寒かったがポカポカと陽射しが暖かかったので、娘を胸に抱いて散歩に出た。ふと見ると、娘は手を空中にかざし、その手をじっと見ている。何かつかもうとしているように見えた。何しているのだろうと思って、ふと気が付いた。風をつかもうとしていたのだ。たしかに空中には風の流れがあった。「きっと赤ん坊には風が見えるのだろう」と、私は思った。私には新鮮な驚きだった。
 『トトロ』には名場面がたくさんあるが、ラストのほうで、入院中の母親を訪ねたサツキが泣き出す場面がある。母親に代わって妹や家の心配でストレスが溜まっていたサツキは、母親の顔を見た瞬間、緊張の糸が切れ、ワーッと泣き出す。そういう娘に対して母親は、やさしく娘を招き寄せ髪を梳かし始める。激しく抱きしめたり、愛情いっぱいの言葉を掛けるわけでもなく、やさしく語りかけながら髪を梳かすのである。それでサツキの心は癒される。
 この母親が娘の髪を梳かすという愛情表現のリアリティと親子関係にとっての大切さについては、女性ならば説明するまでもなく理解できるだろう。正直なところ、無骨な男である私は、宮崎駿の解説を読むまでわからなかった。何気なく見過ごしていた。そう、私も煩悩に縛られた大人なのである。「小説で女性を描くなんて十年早い」、と宮崎駿に言われたような気がした。
 どうして宮崎駿はそんなことまで理解することができるのだろうと、驚いてしまう。彼は男ばかりの四人兄弟の次男として生まれ育った。結婚して生まれた子供は二人とも男の子である。女っ気はない。宮崎駿恐るべしだ。これもすべての方向に感性のアンテナを張り巡らせているからこそできるワザなのだろう。
 作家が子供たちと向かい合うときは、常識に凝り固まった大人の頭をできるだけ真っ白にして、同じ目線から同じ物を見るようにすることだ。そんなことを宮崎駿が教えてくれている。