井上ひさしに学ぶ(一)

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 最初からネタ本を紹介しておく。桐原良光著、『井上ひさし伝 』(白水社刊)である。著者は毎日新聞の編集委員で、井上ひさしと親交がある。詳しいことはこの本を読むとわかるが、一つだけ著者のアプローチで疑問に思うことは、井上ひさしの自伝的小説(『モッキンポット師の後始末』など)を基にして、本人の実像を探るのは間違っていないと思うが、フィクションとして書いた小説の登場人物から細かく本人像をせんさくするのは、ちょっとおかしい。作品は作品として評価すべきで、作家の伝記の根拠にすべきではない。それを抜きにすれば、本書は非常にいい本である。
 「この地球は涙の谷。悩みごとや悲しいことでいっぱいだ。そこで喜びはどこかから借りてこなくてはならぬ。その借り方は-あまり有効な方法ではないが、しかしこの方法しかないので、あえていうが、とにかく笑ってみること。笑うことで喜びを借りてくることができる。

 悩みごとや悲しみは最初からあるが、喜びはだれかが作らなければならないという詩です。この喜びのパンの種である笑いを作り出すのが私の務めです。時に不発だったり、時に間に合わなかったり、なかなかうまくはいきませんが、これからも笑いをコツコツ作っていく決心です。そのことでこの世界の涙の量を一グラムでも減らすことができれば、こんなうれしいことはありません」(『井上ひさし伝』、三四四ページ)。彼を象徴するいい言葉である。
 井上ひさしの人生を理解するキーポイントを紹介しておこう。
 一九三四年十一月生まれ。山形県の小松町(現・川西町)で誕生。
 五歳のとき父が亡くなり、以後経済的に苦しい生活が続く。
 十五歳のとき仙台市のラ・サール修道会経営養護施設に入園し、仙台中学校に転校している。
 十九歳のとき、上智大学文学部に入学するが、ノイローゼ状態になり仙台に帰郷。国立釜石療養所の事務員として働く。
 二十二歳のとき、上智大に復学。この年ストリップ劇場「浅草フランス座」の文芸部員として働きながら脚本を書く。この劇場では渥美清や長門勇など後の大スターが出演していた。そこから脚本や笑いに必要な要素を吸収する。
 二十四歳のとき、ある出版社の倉庫番をしながら懸賞への投稿を続ける。応募回数一四五回。入選一八回。佳作三九回。当時、東の投稿王が井上ひさしで、西の投稿王が藤本義一だったという。この生活を二年間続ける。
 ある脚本の受賞がきっかけで、NHKのドラマの脚本を書くようになり、放送作家として歩み始める。
 三十歳のとき、「ひょっこりひょうたん島」の台本(故山本護久氏と共作)を書く。これが視聴者のみならず専門家から高く評価される。
 三十五歳のとき、「日本人のへそ」という戯曲を書き、それが大評判となる。
 三十八歳のとき、『手鎖心中 』で直木賞受賞。この年自伝的小説『モッキンポット氏の後始末』刊行。
 三十九歳のとき、小説『青葉繁れる』刊行。
 以後は書ききれないくらいたくさんの戯曲と小説を書いている。どれも話題作、ヒット作となっている。

井上ひさしの少年時代はたしかに不遇であったようだが、それを彼が作家になった重大な要因として見るのは問題であると思う。当時貧乏で不幸な少年はたくさんいたからだ。日本経済自体が非常に貧しかった。
 彼の父は作家志望者だったという。それは間違いなく彼を作家へと導いた大きな要因であるだろう。