井上ひさしに学ぶ(三)  

   恩送り

 恩を受けた人に直接返すのは「恩返し」。「恩送り」は、受けた恩を直接相手に返すのではなく、周りの誰かに送るという意味。送った恩は巡り巡って、恩を受けた人や家族や友人に返ってくる。「恩送り」の巡り合わせが、たくさんの人を幸せにする。そういう意味らしい。「らしい」と書いたのは、辞書に出ていなかったから。江戸時代にあった言葉らしい。
 井上ひさしは、中学生のとき半年間、岩手県の一関市に住んでいたことがある。ラ・サール修道会の養護施設に入る直前のことだ。母親と一緒に暮らしていた。
 そこで「返しても返しきれない恩」(『井上ひさしの作文教室』、新潮文庫、七七頁)を受けた。
 生意気盛りの十五歳。少し不良少年だった井上ひさしは、ある日本屋に入り、こっそり国語辞書を持ち出そうとした。世間ではこれを「万引」と呼ぶ。
 店番のおばあさんがそれを見つけ、彼を店の裏手に連れて行った。そこで薪割りをしろという。ひさしはてっきり罰を与えられたと思った。
 薪割りが済むとおばあさんがやってきて、その国語辞書を彼にくれると言う。「働けばこうして買えるのよ」と言って、労賃として辞書代を差し引いた残りもくれた。
 「おばあさんは僕に、まっとうに生きることの意味を教えてくれたんですね」『井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室 』、同書七八頁)。
 一関市のボランティア団体が、「文学の蔵」という資料館を建設したいと考えていた。建設資金づくりとして井上ひさしを講師とした作文教室を開きたいというので、快く無報酬で引き受けた。三日間の拘束である。
 そのときの教室の模様を収めたのが、いま引用した本だ。一九九六年のことである。

 人間誰しも心に深く刻み込まれた出来事がある。苦しいとき、悩んでいるとき、悲しいときに、他人のさりげない言葉や行動に救われることがある。それを「恩」と呼ぶ。
 恩を感じていながら、自分に心のゆとりがなければなかなか返すことができない。
 私は学生時代、社会人の前半と、精神的にどうしようもなく未熟な人間だった。そういう人間がなんとか社会で生きていけるように育ててくれたのが出版業界だとおもっている。変人がたくさんいたし、ペテン師のような人間もたまにいたが、いろんなことを教えてもらった。
 私がこうしてメルマガを出し、HPを開設しているのも、井上ひさしの言う「恩送り」のつもりだ。それが世間の役に立っているかどうかは、読者諸氏の判断に委ねるとして。

 昔、といっても戦前まであったのだと思うが、学問や芸や職人仕事の世界では、師匠が弟子に教え、先輩弟子が後輩に教えるという関係があった。弟子が成長して師匠になったとき、自分の師匠がすでに他界していることがある。恩返しはできない。

 そのときどうするか?今度は自分が同じように弟子を育てるのである。自分が弟子から恩返しを期待するためではなく「恩送り」をするためだ。

 そういう関係が成り立っていたから、お金がなくても強い意志と向学心さえあれば師匠や先輩からきわめて少ない費用で育ててもらうことができた。幕末に優れた人材を次々に生み出した緒方洪庵の適塾は、その典型である(ちなみに私の理想とする塾の姿である)。

 今恩送りの関係が残っている世界は、どこだろうか?職人や芸事の世界には残っているかもしれない。普通のサラリーマン社会にはまずないだろう。欧米的な合理主義が当たり前になっているから。

「恩送り」という考え方の下で育ててもらう機会がない若い世代の感覚は、かなり変わってきているのではないだろうか?

 たとえば「謙虚さ」という感覚。けっこういい教育を受け、いい感覚を持っている若い人(十代から二十代前)でも、「謙虚さ」がない。欧米流に自己主張だけはする。他人から学ぼうとしない。相手の謙虚さが理解できず、それを本当に力がないのだなと受け取る。

 もし、師匠や先輩から教えてもらう、育ててもらうという世界に触れていれば、いやでも謙虚に学ぶという感覚が育っていくはずだ。これ、若い世代が悪いのではない。いまの大人たちやもうこの世にはいない大人たちがこういう社会をつくったのだから、責任はそこにある。何十年かかってそういう社会に変わっていったのである。

 井上ひさしが無償で作文教室の講師を務めたときも、欧米流に考えると「有名作家がタダで教えてくれるはずがない。何か魂胆がある」となる。日本の美徳の一つ「恩送り」と考えれば、すんなりと理解できる。

 文学の世界で、井上ひさしが「恩送り」を実践していることはすばらしいことだとおもう。

 最後に、彼がなぜ芝居の脚本が遅れるのか、ここで紹介した本でようやく理由がわかった。
 「芝居は必ず成功する確信がないかぎり上演してはいけないというのが、私の考え方です」(同書、一八六頁)。

 小説が失敗作だったときは、自分一人がその責めを受ければ済む。だが、芝居の場合はそうはいかない。時間を割いて見に来てくれるお客に失礼である。

 さらに、つまらない芝居を見たお客は、二度と芝居を見にこなくなる。劇団、演劇界全体が被害を被る。作家個人の問題では済まなくなる。

 こうした理由があって、成功の確信がもてる原稿が書き上がらない場合、公演を延期したり中止したりしているのである。

 劇団や公演関係者からみると、それは納得できないかもしれない。井上ひさしほどの作家なら、本人が満足していなくても相当の水準の作品はできるはず。役者の演技でカバーできる部分もあるだろう。結果として、お客は満足するかもしれない。

 しかしもの書きの立場からみると、作家本人が不満におもう作品を世間に出すということは、裏切りに近い行為なのである。井上ひさしに一票。