群ようこに学ぶ

   事務職の傍らに書いた

 物書きの世界も人との出会いが大切である。どこかの新人賞を取って華々しくデビューしたとしても、原稿だけで食べていくことができる書き手は少ない。自分を支えてくれる人たちがいないと、それは非常にむずかしい話である。
 群ようこが作家になるきっかけは、まさに出会いそのものである。それについて今回は紹介したい。
 私はまだ群ようこの作品を読んだことがない。本当はそんなことは許されない。記事を書く以上、読むべきである。それでもまだ読んでいない。深い意味はない。そのうちに読むということを前置きしておきたい。このコーナーは書評が目的ではないので、その点はお許し願いたいと思う。

書店では彼女の本がたくさん並んでいるので人気作家であることは間違いない。
 私は今椎名誠と群ようこの対談記事を読み終えたところだが、これもたいへん興味深い。私の知らなかった話がちりばめてあった。

 「本の雑誌」が創刊して間もないころ、やはり経営的にはたいへんだったようだ。四谷三丁目の慶和ビルというところに部屋を借り、本格的に雑誌をスタートした。お金がないから椎名誠も目黒考二も他の仕事とかけもちで運営していた。雑誌も思ったようには売れず、電話もほとんどかかってこなかったと語っている。
 私もかつて編集者として販売支援のために書店を回ったことがある。いかに本を売ることが大変であるか、身をもって知っている。まして新雑誌を創刊し軌道に乗せることが、どれくらい大変なことか。資金もなくスタートした場合、大変というより不可能に近いのである。
 それを椎名誠たちは実現したのであるから、尊敬すると同時に、どれだけ苦しい思いをしたか、察しがつく。この対談集で初めて知ったのだが、椎名はこの頃、一時的にノイローゼになったそうだ。その原因は書いていないが、原因は「本の雑誌」ではなく、生活費を稼ぐための仕事のほうにあったようだ。
 この厳しい頃、一人の若い女性事務員が「本の雑誌」に就職した。その人が群ようこなのである。

狭い事務所に安い給料。どうしてここに来たのかは不思議だが、無意識に引かれるものがあったのだろう。群もまた、雑誌維持のために大変な苦労があった。
 そんな頃、群ようこはある雑誌の書評記事を書いた。また椎名の勧めで「本の雑誌」にも書くようになった。それがきっかけとなって他の雑誌に小説やエッセイを書くようになっている。まさに「本の雑誌」に育てられた人なのである。
 群ようこは何かの賞を取ってデビューしたわけではない。彼女の持っている何かが椎名誠たちに引きつけられ、椎名たちも彼女を支援するということになったのだ。出会いの大切さを象徴する話である。