池波正太郎に学ぶ 2

   池波流小説作法とは 

 池波正太郎はエッセイや対談でよくこんなことを言っている。私は小説を書くとき、あらかじめ展開を考えない。主人公と、あるシーンがひらめいたら書き始める。だから、先がどうなるかは、私にもわからない。

 この話を表面的に受け取ってしまうと、誤解してしまう。これは単に「あらすじは考えない。書きながらストーリーを考える」ということではないのだ。私はこの話の真意はどこにあるのか興味があり、いくつかの本で調べてみた。

そして、私なりの結論が出た。一言で表現するならば、究極のリアリティを追求するための池波特有の手法を駆使していたのである。

 小説はフィクション(虚構)だから、ある意味どんなストーリーでもできる。作者の都合のいいように展開することもできる。作者が勝手に「こういう展開にしたら読者が喜ぶにちがいない」と、あらかじめ考えた筋に沿って書くこともできる。

 しかし、そういう書き方は作者の都合だけで話が進むご都合主義になってしまうのではないか、と池波正太郎は危惧した。いくら江戸時代の話とはいえ、それではリアリティのない絵空事になってしまう。

 そこで池波正太郎が取った手法というのは、徹底的に登場人物になりきってしまうというものだ。鬼平なら鬼平に、梅安なら梅安になりきり、彼が見、聞き、感じる物事をとらえ、どういう行動を取りたいかを知り、話を進めていくのである。

 これは究極の感情移入型である。その没入の仕方は半端ではない。池波は言う。

「だから、たとえば短編小説に五日かかるとして、そのうちの二日は、ほとんど何もできない。他の仕事もやらない。書こうとする人間たちが生ま生ましく語りかけ、うごきはじめるのを凝っと待っている。この間が、実は苦しいのだ。

 このように移入型の私であるから、いよいよ仕事にかかると、そのときどきに書いている小説によって、『人が変わったようになる』と、家人や老母がいう。」(『食卓の情景』、七〇頁、新潮文庫)

 あらかじめ考えた展開ではなく、登場人物になりきって考え、感じたとき初めて見えてくるものがある。そういうふうに行動するのが当然なことが出てくる。どうしてもそうならざるを得ない出来事も出てくる。

 こういう状態になったとき、「あとは原稿用紙にペンを下し、その人物がうごいていくままに主題を追っていく」(前掲書、同ページ)。

 時代小説は昔の時代を舞台にするが、現代小説と同じく「虚構(フィクション)の中で真実を語ろうとするもの」である。ストーリー、人物、情景などにリアリティがなければ、読者は感情移入してくれない。当然いい作品にはならない。

 作家たちは自分の流儀でそのリアリティに迫っていく。舞台となる現地を取材したり、関係者から話を聞いたりするのもそのためだ。小説家は事実や物事を資料として捉えるだけでなく、感覚的に捉えなければ、文章として表現することができない。

 池波正太郎は今まで述べてきたような独自の手法を取ることによって、それを実現していたのである。

 ただし、誰でも真似できるかというと、そうではない。大切なのは自分にあった手法を見つけ確立することなのである。

 参考文献

「食卓の情景」 (新潮文庫)