ある読者の方(ここではAさんとしておく)から文末にあるお便りをいただいた。これについて私の考えをご紹介したい。 今、日本の人口構成は、年寄りの人口が多い逆ピラミッド形になっている。 ピークが「団塊の世代」である。戦後の1943〜53年くらいに誕生した世代を指す。現在51歳から61歳くらいになる。そこから人口は下降線をたどる。 団塊世代の子供たち(1971年から1975年生まれ)、孫たちの世代も人口が増えたので、グラフにするとその部分は若干ヤマになる。ただ少子化傾向に変わりはない。 この中から文芸関係に限定し、月に1冊以上読書する人口を推定したいのだが、はっきりした数字はわからない。この10〜20年間、平均して文芸書籍の売り上げが良くないことから判断すると、その読書人口が非常に少ないことだけははっきりしている。年齢層を見ても、Aさんのご指摘にあるように、中高年の方の割合のほうが多い。 ところが、大ベストセラー本に限定して読者層を見ると、状況が変わってくる。古くは1981年の黒柳徹子のエッセイ『窓際のトットちゃん―Totto‐chan この数字から判断すると、文芸部門では600万部が販売部数の限界と言える。 大ベストセラーが出る背景には、それまで「ふだんは本を買わない層」も巻き込んで売れないと達成できない。その「ふだんは本を買わない層」というのはどういう層か?ちなみに、「ふだんは本を買わないが図書館で借りて読んでいる」という層も確実にいるが、それは把握できないので除外する。 アマゾン・コムなどで『世界の中心で愛を叫ぶ』の書評や感想文を読んでみると、特に多い層というものがよくわかる。年齢層は10代、20代。性別は女性の方が男性より多い。職業は学生、OL、主婦が多い。こういう層に人気が出てくると、それにつられて「一応知っておかなきゃ」ということで、中高年の男性・女性も購入するようになる。これが大ベストセラーの典型的なパターンである。 さて、本題の「活字離れ」を考えてみたい。 『窓際のトットちゃん』の販売部数が示すように、600万人以上もの読者が日本にいるわけだから、その意味では「活字離れ」とは言えない。世界的に見ても、日本は活字文化の盛んな国の一つである。 問題はこの膨大な層の読書が日常的に定着するかどうかだ。つまり「ふだんは本を買わない層」が、ベストセラー本をきっかけに他の本や歴史的名作を読むようになるかどうかだ。そこがポイントである。 これについてはっきり分析したデータを私は知らない。これまでの流れをざっと見て言えることは、一時的な読書に終わる人のほうが圧倒的に多いということだ。もちろん一部の人は読書に目覚め、他の本をどんどん読むようになるだろうが、それが主流ではないようだ。ここに「活字離れ」と言われる理由がある。 ではどうしたらベストセラーで読書のおもしろさを知った読者に、読書を定着させることができるのか? 同世代の作家に限らず、他の世代の作家が若い世代を読者対象として、どんどん作品を発表するようになればいいのではないだろうか?私はそう思っている。 宮崎駿は中年という年齢であるが、幼児や児童の目線からアニメ作品を作ることができる。女の子を育てたことがなくても、女の子の感性を主人公に盛り込むことができる。 作品には子供たちへの深い想いが込められている。それは人生訓話でもなく説教でもない。子供たちの魂のエネルギー源となるようなものである。 司馬遼太郎は中年になってから歴史小説『竜馬がゆく』を書き、今も若い世代に勇気と希望を与え続けている。『竜馬がゆく』は青春小説でもある。 芥川龍之介や太宰治の作品が青年時代の読者にいつまでも高く評価されるのは、いつの時代でもその世代が持つ普遍的な問題が語られているからである。 遠藤周作や井上ひさしも同じように評価されるべき作家であると思う。 こういう作家が多数輩出してくれば、若い世代の「活字離れ」はなくなっていくだろう。 ところが、現実はまだそうなっているとはいいがたい。 若い作家のほうが身の回りのものや出来事に対する感覚が同じであるから、同じ世代の読者をつかむことができる、というのは一面では正しい。 たとえば長野県知事の田中康夫が書いた『なんとなくクリスタル』(河出書房新社)は1981年のベストセラーの一つ。高級ブランド名が羅列されるような文章で、当時の若者のブランド志向にぴったり合った。 吉本ばななや綿矢りさのベストセラー作品も、作家自身の身の回りの生活を素材とし、フィクションに仕立て上げた形式の作品と言える。私小説の手法に似ているが、あくまでもフィクションであって私小説ではない。登場人物は、作家から見ても若い読者から見ても等身大の人たちである。 その時代の若い読者にとって、こうした作品は共感できる部分が多いし、おもしろい作品であることは間違いないだろう。 こうした「等身大作品」がよく売れているようで、続々書店に登場している。 ではこれらの作品が、時代の変化の中で常に若い世代の共感を得ることができ、おもしろいと思われるかというと、疑問が出てくる。たぶんそうはならないだろう。若い世代の感覚はどんどん変わっていくものだから。 つまり、一時的に流行するファッションや歌のように、やがて忘れ去られていく作品が多いのではないか、ということを言いたいのである。 作家自身も乖離していくに違いない。等身大の主人公とその生活を描き続ける作家は、いつまでも若い世代を代表する作品を書き続けることができなくなる。自分が30代なら30代の、40代なら40代の生活を素材に書かざるを得なくなるだろう。 小説の存在価値は、阿刀田高が指摘しているように、主に2種類ある。一つは、人間や人生とは何か?その意味を追い求めること。もう一つは、暇つぶしとして、ただおもしろく楽しい時間を過ごすこと。生真面目な人は後者を軽んじる傾向があるが、後者も存在価値があることは間違いない。青春時代に流行った歌で慰められた経験はないだろうか?それと同じことである。流行った小説で慰められ励まされることもある。その意義を軽んじることはできない。そういう意味で、当然ながら若手作家によるベストセラー作品の存在意義は大きい。そのことは誤解の内容に踏まえておいていただきたい。 ここでは「活字離れ」がテーマである。激しい時代の変化の中で、いつの時代でも若い読者に読み継がれる小説が、もっとたくさん登場してくれば読者が定着し、おのずと「活字離れ」は克服できるだろう。その担い手は誰か?言うまでもなく作家であり出版社である。社会現象に振り回されることなく、しっかり自分の足元を見ながら自分の作品を出していくという素朴な結論になる。 Aさんを含め皆さんのご活躍に期待したい。 (Aさんからのお便り) 御マガジン『パウパウ』をいつも楽しく愛読させて頂いております。とても参考になる情報や御意見を発信して頂き、本当にありがとうございます。これからも御無理をなさらない範囲で我々に情報と勇気をお与えくださいますよう宜しくお願い致します。 ところでもう去年の話になるのですが、私の住んでおります上尾市の隣の桶川市という所に埼玉県立文学館なるものがありまして、そこで行われた埼玉出身の森村誠一氏の講演会に行って参りました。大ホールはほぼ満席で、講演時間も予定の二時間を越えるほど盛り上がったのですが、ただひとつ気になったのは、若い人が少なかったということです。 と言うより90%以上の来場者が年配の方々だったように感じました。 時代は確実に活字離れの様相を呈しております。このような時の流れの中にあって、我々物書きを志す者たちはどのようなスタンスで臨んだらよいのかを御指導頂きとう存じます。 ●前ページへ |