夢幻流もの書き道場 上山明彦著

自分史と小説の違いについて

 ある方から私のところに質問のメールが届いた。「自分史」を書きたいと思って、ある小説の講座(他社主催)を受講しているのだが、なんとなく腑に落ちない。自分の書こうとしていることと、講座の内容が合わないように思う。その理由がはっきりしないというような趣旨のメールだった。その方にはできるだけ詳しく書いて返事を出した。
 こういう疑問にぶつかるのはその方だけの話ではないだろう。多くの人の参考にしてもらいたいと思い、そのとき書いた返答を元に、若干書き直したものをここで紹介したい。

 1.フィクションとノンフィクションの問題
 一般的に「自分史」というのは、自分の成長の記録のことである。日記のような記録文学、あるいはノンフィクションと同じように事実に基づいた出来事を記録し、そのときの自分の感情を書き添えるというスタイルが一般的な自分史である。
 文体はエッセイ風であったり、小説風であったりすることがあっても、事実に基づく出来事を書くということに違いはない。
 一方、小説というのはフィクションであるところに大きな特徴がある。
 「自分史」に一見似たものに、「私小説」というものがある。これは自分を主人公のモデルにし、実際に自分の身の回りで起きた実際の出来事(事件)を題材としてストーリーが展開する。
 「自分を主人公にした実話」に近い小説であるから、「自分史」と同じではないかと思うかもしれないが、こちらはあくまでも小説である。自分をモデルに書いているからといっても完全に同一人物ではないこと、題材に取った出来事についてもすべてが事実ではないこと、つまり事実に近いけれど、あくまでフィクションであることが、その理由だ。私小説もフィクションである。

2.、起承転結にそってストーリーが展開
 小説はすべて、起承転結にそってストーリーが展開するというところに大きな特徴がある。
 「自分史」は、ああいうことがあった、こういうことがあった、私はこう考えたという話が続くものであり、起承転結を持ったストーリー性はほとんど必要としないものである。
 世の中にはドラマ的な波瀾万丈の人生を送り、人生そのものが起承転結で終わった人がいる。歴史上の偉人たちがそうである。そういう人たちの生涯を描く場合は、伝記ではなく、小説(歴史小説)そのものになる。
 一般的に「自分史」という場合、起承転結を持ったストーリー性のある本にはならない。そこに大きな違いがある。

3.展開する時間の問題
 展開する時間の問題もある。「自分史」は通常、生まれてから現在までの自分の歴史を記述する。
 私小説は、その人の人生の中でもっとも重要な部分を取り出す。それが一日の場合もあれば、1年あるいは10年の場合もあるが、特定の部分を取り出して重点的に展開するものである。
 ちなみに、事実に基づいて全生涯をまんべんなく描くと、それは「自伝」(他人が書けば「○○伝」)ということになる。

4.読者対象の問題
 小説はどんな小説であれ読者対象がはっきりしている。司馬遼太郎は、「自分と同じ関心を持った人が3000人はいるだろう」と考え、その読者を念頭に小説を書いていたと語っている。
 不特定多数の読者に小説を読んでもらうためには、普遍性(他人にも共通するテーマ)や娯楽性(読んで楽しんでもらう要素)が必要になる。そういう要素が読者をつかむことになる。読者が本を読むのは、普遍性から何かを学び取りたい、娯楽性によって楽しませてもらいたいと思うからである。
 「自分史」はどうだろうか?著者が普遍性を持つ部分だけを書いたとしたら、それは「自分史」にはならない。省略すべき事実がたくさんありすぎることになる。「自分史」ではなくなってしまうことだろう。
 娯楽性をふんだんに盛り込んで書いたとしたらどうだろうか?たぶん事実を記述することに割くべき力が、おおかた娯楽性に費やされてしまうことになるだろう。やはり「自分史」ではなくなってしまうことだろう。
 私は「自分史」は自分の家族や親戚、知人・友人(経営者であればそれに加えて社員)のために書くものだと思っている。多数の見知らぬ読者に読んでもらうように書くことには無理があると思う。
 しかしながら、著者がすぐに有名人になり、たくさんのファンができたとすれば、彼らは些細な出来事までも知りたがることだろう。そういうときはどんな書き方をしたものであっても、読者を獲得し、その「自分史」は貴重なものとなるはずである。ただし、それは例外中の例外だ。

5.テーマと目的
 自分が悩み苦しんだ経験を伝え、他人を導く一つの道しるべとしたい、とはだれもが思うことである。。
 その際、自分史や自伝がいいか、エッセイがいいか、小説がいいかという選択に悩むことだろう。どちらがあなたの意図に合っているか、ということが大切である。
 「事実を書くからリアリティがある、フィクションを書くからリアリティがない」、という考え方があるが、これは間違っている。
 「フィクション」といっても、まったくの嘘ではなく、実際にあったことや実際にありそうなことを材料にして書いたものが小説である。

 現実の生活を事実に即して書くと、読み手にとっては余計なものが多くなってしまう。テーマに関係ない人や事物は削除してかまわないのである。
 何か重要な出来事や事件について書く場合、その意味するものが鮮明に浮かびあがるように場面を設定し、より迫力のある出来事に描き出すことも必要になる。
 たとえば実際は「未遂」に終わったことであっても、小説で事件に発展したことにしたほうが、より問題点が鮮明になるというようなケースである。

 登場人物についても、現実にいる人をそのまま描いたのでは、存在意義や役割がはっきりしない場合がある。
 たとえば、ある才能のある科学者の足を引っ張る同僚がいるとしよう。現実社会では「足を引っ張る」と言っても、悪口や陰口程度かもしれない。
 小説では、そういう男たちの象徴としてデフォルメして、露骨にいやがらせ、研究の妨害、中傷、暴力といった行為をする男として描いたほうが、読者には問題意識がよく伝わるだろう。優柔不断の上司がいれば、そういう人間の代表として描ききったほうが、問題点がより鮮明になる。
 小説のほうがノンフィクションよりも、よりはっきりと読み手にメッセージを伝えることができる場合があるのだ。
 こうして考えてくると、「フィクションのほうがリアリティがある」ということも言える。
 小説家はだれでもそういうことを目指して小説を書いているのである。

 要は書き手の判断である。自分に向かないスタイルは選択しないほうがよい。自分に合った方法で書いていくなら、何を選択したとしても、よい作品ができるに違いない。今述べたことが参考になれば幸いである。

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