読者を楽しませることに徹すること
以前、「作家魂」のコーナーで宮崎駿の自伝『出発点―1979-1996 』から、彼の経歴と同時に「他人を喜ばすのはむずかしい」という言葉を紹介したことがある。映画ならば視聴者、本ならば読者を喜ばせることがプロ作家の使命だと思う。その喜ばせ方は一通りではない。人の数だけやり方がある。どれを取るかは作家の感性と価値観による。どんな方法を取ったにせよ、他人を喜ばせるのはむずかしい。
「作家魂」のコーナーで、佐藤さとるが、作家は読者を楽しませることに徹するべきである。そういうふうに書いたとしても、作家の人生観・価値観は作品の中からにじみ出てくるものだ、と語っていることを紹介した。私自身、この言葉に目を覚まさせられたという思いがした。
2008年に入って、私はそのことをまた実感する場面に遭遇した。私が住む鎌倉である会があり、舞台朗読の第一人者幸田弘子の朗読を聴く機会があった。題材は『セロ弾きのゴーシュ 』と賢治が妹の死に際して作った詩が主だった。
彼女の朗読はどれくらいすごいのかな?という期待で、私は胸を膨らませていた。朗読が始まってしばらく経った。話し方、抑揚などたしかにうまい。だが、うまい人は世の中にたくさんいる。幸田弘子が朗読の第一人者といわれるのはなぜだ?そんなことを考えながら聴いていた。いつの間にか、私の周りの素直な聴衆は、彼女の語りの世界に引き込まれていた。一言一言に笑ったり、ため息をついたりしていた。
宮沢賢治の妹の死に直面したときの詩が朗読された。無性に涙があふれてきた。「泣くもんか、その手には乗らないぞ」と抵抗した。それでも涙が止まらなかった。題材のすばらしさもさることながら、私はやはり彼女の朗読に引き込まれていたのである。
「幸田弘子の演出に乗せられたようで悔しい」と思いつつも、その理由を考えてみた。そこで思い当たったのは、宮崎駿と佐藤さとるの言葉だ。朗読はほとんどの場合、他人の作品を読むことである。作品自体は他人の書いたものだ。
そういう限定された条件の下でも、朗読にはその作品に感情移入した朗読者の気持ち、つまり読み手の人生観や価値観がにじみ出てくるものなのだ。私が心を揺さぶられたのは賢治の作品の要素に加え、朗読者の想いが伝わってきたからだ。
朗読においてさえ、読む人の人生観・価値観にじみ出てくる。まして小説となると、作家がいかに自分の人生観・価値観を抑えて書いた、読者を楽しませるだけのために書いたとしても、そういったものが滲み出てこないはずがない。
そういうことを考えてくると、いろんなことが見えてくるものだ。読者ウケを狙っただけの小説の軽薄さ、表面的に高尚なことを書いて気取っているだけの小説のくだらなさ、読者を楽しませるために書いているように見えるのに心に深く響く小説のすばらしさ。その根本的な違いはそういうことだったのか!また一つ私の中でもやもやとしていたものがすっきりした。はっきりと他人に説明できるようになった。
どんな分野においても、本物ってほんとうにすばらしい!
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